2010年10月2日土曜日

奇術師フーディーニ 〜妖しき幻想〜 Death Defying Acts [2]巫女もシャーマンもパフォーマンスょ...

霊能力、超能力、魔術、奇術・・・フーディーニが活躍した1920年前後は、こうしたものがすべて等しかったんじゃないかしら。ちょうどロボットが映画に登場もしてくる時代。飛躍する考えかも知れないけれども、「ロボットに魂がある」という発想で手塚治虫は鉄腕アトムを創造したのではないでしょうか。それは人形のものには魂が宿る、という話しにも繋がるように思えます。

手塚治虫は多くのタイプのマンガを描いたけれども、妖怪ものはわずか。どろろと百鬼丸は、水木しげるさんの妖怪ブームに逢わせた作品でした。それでも妖怪は出てきても、医学的な印象をわたしは百鬼丸に感じています。手塚治虫さんも水木さんと同じく、戦争経験者だけれども目に見えない存在も科学的根拠にないかと求心していたのではないでしょうか。子ども時代はこまやかな絵を描いていたところは手塚さんも水木さんも同じだけれども、心の在り方は西洋、東洋の開きがあったのかも知れない。

日本人の精神の美に、『見えないけれど有るんだよ』と妖怪の存在を感じる心を言われます。多くの人が、難しいことは分からないけれども受け入れられる心はあったのでしょう。日本だけのことではなくて、フーディーニの時代のアメリカもそうだったのではないかしら。

キャサリン・ゼタ=ジョーンズが演じる女性は、ショー化された霊媒。露出の多い服装を楽しみに劇場に集まった観客も多いとは思いますが、巫女にしてもシャーマンにしても一種のパフォーマンスなんです。

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